
長沢慎一郎『The Bonin Islanders』
小笠原の先住民がもつアイデンティティを可視化し、
見えづらい複雑な歴史を提示する
東京から南に100キロ、世界自然遺産に登録されている小笠原諸島父島。かつて無人島だったこの島は、幾つかの歴史の転換点を経ることになる。1830年、5人の欧米人と20人のカナカ人が初めて入植したが、1873年に正式に日本領土とされ彼らは帰化することになった。日本からの入植はすぐに始まり、彼らは欧米系先住民と呼ばれるようになる。やがて、第二次大戦時に島は要塞化し、全島民は本土に強制疎開させられた。終戦後はアメリカ海軍の占領下に置かれたが、GHQが帰島を許したのは欧米系先住民だけであった。占領は1968年まで23年間つづき、彼らはアメリカ文化の中で生活した。日本返還を知らされたのは返還直前だったという。MUJIN(無人)ーBUNINーBONIN と変化した呼名。占領時代の出生証明書やパスポートにも記載された、「Bonin Islandes 小笠原人」というアイデンティティ。政治に翻弄され、周縁に追いやられていった彼らの歴史を、著者は丹念にリサーチし、ひとりひとりのポートレートと風景写真を13年かけて撮りつづけた。風景はただ美しいだけでなく、島民にとって重要な意味をもつ場でもある。東京都の島でありながらどこからも遠くにある小笠原。その知られざる歴史とそれを宿す人々を静かに物語る写真集。
「俺たちはアメリカ人でも日本人でもない小笠原人だ!」
── 南スタンリー
“We aren't Americans.We aren't Japanese. We are Bonin Islanders!”
── Stanley Minami
〈寄稿〉
長沢が撮った小笠原
デイビッド・オド
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ハーバード大学美術館
学術・公共プログラムディレクター
リサーチキュレーター
この写真集は、東京在住の写真家長沢慎一郎の、十年以上の長きに渡る小笠原諸島での撮影の集大成だ。欧米では「ボニン・アイランズ」として知られる小笠原諸島は、東京のおよそ千キロ沖に位置する大小三十余りの島々から成る群島。亜熱帯の島々の自然美は日本国内はもとより海外からも多くの観光客を惹きつけ、2011年には稀有で独特な(そしてよく保たれた)自然環境から、日本で四箇所目の(そして未だ四箇所しかない)世界自然遺産に登録された。小笠原の生態系にはオガサワラオオコウモリや、他では見られない鳥類や植物などの多くの絶滅危惧種が含まれ、群島を取り囲む海には幾種類ものサンゴや魚や鯨、その他の海洋生物が数多く生息している。
長沢も、これら豊かな自然環境を撮影している。しかし、彼の写真の真骨頂は美しいビーチや草花ではなく、2008年から通い続けた小笠原諸島の各地や人々との深い交流の轍にある。2007年、長沢は旅行雑誌で「欧米系移民」と呼ばれる人々(19世紀から20世紀に外国から移住してきた欧米人を祖先に持つ島民)の特集を読んで小笠原に興味を持った。19世紀当時から小笠原諸島はヨーロッパやアメリカ、そして日本の船乗りや捕鯨者たちの間で知られていたが、島に最初に定住したのは太平洋、アメリカ、ヨーロッパの出身者たち。当時は無人島だった小笠原諸島に捕鯨コロニーを作るため、1830年にホノルルを発った面々だった。ホノルルで作られたコロニーは、英国から経済的支援を受けていたものの属領にはならず、したがって、強国からの軍事的支援のないまま、当初は海賊からの頻繁な攻撃に脅かされていた。その後、島には日本を含む他国からも移住者が集まり、1870年代には新生の明治政府から国土指定される。第二次大戦中は1944年まで米軍と日本軍の陸戦場となり、戦後は1968年に日本に返還されるまで米軍の占領下に置かれた。小笠原は現在は東京都の管轄下にあり、(非常に)離れた都の島嶼部の一つになっている。ここは、ホモジーニアスと(誤って)表現されることの多い日本社会の中にある多民族コミュニティーであり、長沢が島民に興味を持ち、外部にほとんど知られていない彼らの物語を知りたいと思ったのは、何も驚くべきことではない。
2008年2月、長沢は東京と父島(旧名“ピール島”)の二見を結ぶ客船「小笠原丸」で父島に向かった。父島は小笠原村の中心的機能を果たす島で、二千五百人弱と言われる全村民のうち凡そ二千人が暮らしている。この島に千人の乗客を運ぶ小笠原丸での船旅は、通常二十五時間を要する。二見港に入港した船は数日そこに留まった後、船首を回して東京に戻る。そしてそれを繰り返す。小笠原には民間機用の空港がなく、船が本土と島々とを定期的に結ぶ唯一の移動手段だ。島ではしばしば船の一往復、すなわち二、三日を一単位に時間が数えられ、訪問者は「一航海の滞在か、それ以上か」と聞かれたりもする。長沢は、満を持して三航海分の滞在予定で小笠原に向かった。欧米系移民のコミュニティーに面識を得て、写真撮影をするのにも十分な期間のはずだった。しかし、彼の目論見は外れた。
長沢が最初に出会ったのは、南スタンリー、ホエール・ウォッチング船のオーナーかつ船長だった。父島に降り立った長沢は南氏に自己紹介し、欧米系先住民の歴史について知りたいということ、彼らの写真を撮りたい旨を伝え、そして即座に拒絶された。「帰れ!我々は晒し者になるためにここに居るんじゃない。我々はアメリカ人ではない。日本人でもない。小笠原人(Bonin Islanders)だ。興味があるだって?そんな理由で写真を撮るためにウロつかれても迷惑だ!」
幸先は悪かった。しかし結果的にはこれが、写真家には重要な教訓になった。長沢は、この最初の不運な巡り合わせによって、撮影は思っていたよりも複雑で時間のかかるものになりそうだと腹を括った。幸いにも彼はすぐに協力的な人物にも出会い、そのうち何人かは写真撮影にも快く応じてくれた。彼らによると、島民の写真撮影を巡ってはこれまでに何度もトラブルがあった。記憶に新しいところでも、欧米系移民が人格を持った人間としてではなく、標本や科学研究の対象のように扱われるケースが何件かあったという。ドイツ人遺伝学者による1927年と1957年は、「異人種交配」または「混血」と、彼らの形質特性についての画像証拠を作成することを目的にしており、当時の科学的人種差別を象徴するようなものだった。この研究は、当事者として撮影を覚えている年長者や、親族や友人がかつて被写体になったという若い世代を長い間苦しめ続けた。そして、この研究に写真が深く関与したことで、島民の心には写真への拭い難い不信感が植えつけられた。ただし、この研究さえも写真の(誤った)使用がボニン島民の心に写真不信を植え付けた最初の例ではなく、また最後の例でもない。
島々と写真を巡る歴史は、日本と小笠原島民の交流の最初期に遡る。最初に写真が撮影されたのは、日本が植民地探査を行った1875、76年。この探査は、短期かつ不成功に終わった江戸最晩年の1862年の入植の試みに続くものだった(この時には写真は撮られていない)。明治初期の探査で政府は公式に写真家を採用し、東京在住の商業写真家・松崎晋二が撮影に当たった。これ以降、日本は第二次大戦の終盤まで島々を治め、小笠原は戦後1968年に返還されてから今日まで日本領となる。お雇い写真師の松崎は、政府の情報収集目的にも日本国内向けの販売用にも写真を制作した。この時に作られた小笠原の風景と、とりわけ小笠原人の写真は、土地と人間に関する純粋なポートレイトというよりは、あくまで日本の新しい植民地に関する(植民地で新たに獲得した土地と人間に関する)、人間味のない画像資料として閲覧された。撮影時の条件の詳細は不明だが、植民地での初めての写真撮影だったことを考えると、島民には「どのように」はおろか、そもそも撮影可否についてさえほとんど発言の余地は与えられなかったと想像される。
日本の入植が成立した後は、政府、科学者、メディアなどが更なる撮影プロジェクトを進めた。表向きには現地の動植物の研究を謳うものもあったが、実際には島民、とりわけ欧米系移民の写真を含むものが多かった。島民の写真は、大正天皇のために作られたアルバムにも収められており、傍らには排斥的ないし人種差別的なキャプションが添えられた。母親と子供の写真には「南洋土蕃帰化人(南洋からの島民化した野蛮な帰化人)」とある。小笠原を題材に20世紀前半に作られた写真葉書の多くも欧米系移民を被写体にしているが、彼らは日本人移住者とは区分され、異邦人として紹介された。戦争の火の手が小笠原に迫り、戦局がいよいよ悪化した1944年には、日本政府により島民は本土に移住させらた。しかし、欧米系移民(と彼らの日本人配偶者・子供)は、1946年にアメリカに対して小笠原への帰還を嘆願している。本土で「ガイジン」と見なされて受けた差別があまりにも酷かったためだ。日本国籍にもかかわらず、本土で敵国人米人と誤解されて酷い差別を受け、国中が食料や衣類や住居などの物資難に陥って困窮した戦中戦後には、激しい略奪にも喘いだ。
日米両政府が小笠原諸島の日本返還計画を進めていた1968年、一人の年長の島民がある新聞記事で、自分たちが「南海のアイヌ」になる危険性を訴えている。自分たちが政府や、今後島を訪れる人たちから、排斥されたり異邦人として物珍しがられたりする惧れがある、と。写真が、島民をモノ化するのに利用される危険性は非常に高かった。
その後何年も、本人の許可(や何がしかの補償)なしに欧米系島民が撮影される例が後を絶たず、島民の心にはカメラを振り回す部外者への不信感が募った。長沢は二見港に降り立った時点ではこの史実を知らなかったが、南スタンリーの「小笠原人(Bonin Islanders)だ」という主張を重く受け止めた。彼の島での活動のあり方を決定づけたのは、まさにこの一言だった。その後長沢は、時間をかけて島民のことを知った上で誠実なポートレイトを撮ることや、島民の個人史やコミュニティーの歴史を把握しておくこと、そして彼らのホームであるボニン・アイランズについて理解することの大切さに思い至る。彼は小笠原諸島の歴史について、出版物からだけでなく口述史からも可能な限りのことを学ぶことにし、多くの島民と対話を重ね、個人やコミュニティーの歴史について教わり、彼らのホームであるボニン・アイランズについて理解を深めていった。
長沢が島民に受け入れられるようになった背景には、歴史の理解以外にも理由があった。彼は写真を撮るために、コミュニティーの個人個人と相互協力関係を築いたのである。その結果は、彼は単なる「被写体」ではなく、言うなれば「写真パートナー」と呼べる人物たちのポートレートを制作することに成功した。同時に長沢は、単に美しいだけではなく、島民にとって重要な意味を持つ場の撮影も始めた。土地土地の歴史は、ちょっと覗き見にやって来た程度の部外者には開かれていない。長沢の写真は、小笠原人のアイデンティティーや歴史、そして彼らの命についての何がしかを、我々に伝え見せてくれる。
長沢の小笠原の写真は、はっきりと今日的である感性と、初期の写真には見られなかったような写真家と被写体の全く新しい関係性の上に成り立っている。プロジェクトを進めるにつれ長沢は、「日本人写真家」として、小笠原写真を巡る複雑な歴史や遺産を考慮に入れるだけではなく、相互信頼・相互理解をベースに島民と新しい関係を築いた上で撮影に臨む必要がある、ということに気づいた。ポートレイトの撮影には「写真パートナー」の同意と協力が不可欠だ。今や形勢は完全に逆転し、小笠原人の方にこそ、外部からの写真家による写真撮影を受け入れるか否かの決定権がある。辛抱強く島民との間に有意義な関係を築き、彼らの歴史やアイデンティティーについて理解を深めたことで善循環が起き、長沢は島民や彼らの大切にしてきた場の、より豊かで誠実なポートレイトを撮ることができた。写真家と島民の相互協力の結果が、この写真集だ。この本に収められた膨よかで外連味のないポートレイトは、小笠原人たち「を」ではなく、彼ら「と」撮られた珠玉の作品である。
〈仕様〉
長沢慎一郎『The Bonin Islanders』
Art Direction:林規章
Book Design:乗田菜々美
発行:赤々舎
Size: H223mm × W297mm
Page:128 pages
Binding:Hardcover
Published in June 2021
ISBN:978-4-86541-137-9